昭和44年9月4日 夜の御理解


 今晩あの久富さんが先日からこうして、屋根変えをされる途中にあの、夕立にあわれてもうそれこそ家の中は川のようになって流れたという位にどしゃぶりだったですから、その為に畳がぬれたり、又はタンスがぬれたりしてまあ大変だったらしいです。今日までとうとう1日その後の屋根の修理が掛かっておりますから、もう畳から乾し、拭きあげもう大変なことだったらしいですけれども、おかげで本当にあの、今まで出来なかった大掃除が出来ましたとこういうのです。お礼をいうておりますからそのお礼がね、あの、どの程度、どの程度のありがたさ、または深さを持ってなされていくかという事がその人の信心の程度であり度合いであります。ですから、これはもうどんな場合であってもおかげで、例えばこういう苦しいことに合いました、こういう難儀なことになったけれども、おかげでというものがです、どこのはしにか必ずある。信心させて頂いておって。どういうことがあっても。例えばこういうような大変な難儀に遭うておるけれども、ここに神様がこういう働きを見せてくださっておるというところが必ずあるのですよ。ですからそこんところがキャッチできるところから、ね、この事は大変なことでございましたけれども、おかげでこういうおかげを頂きましたとそういうそのどんな中にでもまあ、ね、おかげで大掃除が出来たと喜べれるという心。ね。教祖様が神様から、お金を拾わすからといわれるから半日かかりでお弁当持ちでお出かけになったけれども、それこそ、お金は一銭も落ちていなかった。また、帰れと仰るから帰らせて頂かれた。そしたら、神様から「今日は何ほどのものを拾うた」かと。「今日はもう数を数えられんほどの拾らいものでした」とこういわれる。「拾うたものは数えられん事はあるまい」とたたみかけていわれるのに対してから「おかげで今日は毎日こうやってご神前に奉仕させて頂いておるのでございますからもういつの間にか血のめぐりが悪くなっておる。今日はおかげで半日歩かせて頂いてまあ血のめぐりのおかげを頂き命というありがたい拾いものをさせて頂いた」という意味のことをいうておられる。此の方はもう試しようがないとすらいわば神様が仰っておられますね。もう試しようがないところまで試されてもそこから喜びを見出させてもらう。始めの間は嘘にでもいい。ね。けれどもやはり私はそういうような心の状態、ね、本当にあの大変なことでございましたけれども、思わぬ大掃除が出来ましたとこうお礼をその申し上げるその心、それが、私は金光様の御信心には大切だと。ですからここはまあ、例えば出来ても出来んでもここんところのお礼の言えれる信心を頂きたい。勿論その内容というものはです、ね、その内容というものは分らん。本当にどの位ありがたいとその事を思うておるかと。ね。子供さんが亡くされた。亡くなられた。教祖様の、一人は助かられ、一人は亡くなられたといったような場合でもです、もうその、亡くなられたことに対するのではなくてもう全快のおかげを頂かれたというお子様の事に焦点がおかれてありがたいとお礼を言われておる。そのお礼というのも、どのようにやっぱありがたかったかというのはやはいり、いわゆる当時の神主さん方をお呼びになってからお祝いの縁をはっておられたり、お礼に米をなんぼとか、お金をなんぼという風にその当時のお金としては沢山なお金を包んでお礼を言うておられます。だからその、お礼を言うと言うてもね、だからお礼を言うその事もあり難い。ね。そうでなからなければいけない。おかげで、神様のおかげ助かりましたというものが。神様のおかげでこういう事になりましたけれども、おかげで大掃除が出来ましたと、繁雄さんが言うておられるのですけれども、そのお礼が本当に実感としてどれだけお礼という心になっておるか、そこんところが楽しみ。それが段々段々口だけでお礼を言うておったのが本当にお礼を申し上げるその実感というものが生まれてくるように段々なってくる。ね。それを例えば心にはありがたいとも思わんのに、お礼だけは言いよるというのではやはり、何ていうかね、取り次ぎの心と、取り次ぎを願う心とがかち合うというかね、これではやはりいけません。それが何とはなしにお礼がお礼で神様に通るような御礼で無からなければいけん。そこから確かにおかげを受けられる事だけは間違いない。道が開けてくるのだけれども間違いがないおかげを受けられるのですから、ね、どういう中にあってもそればじっとそれを見てみてご覧なさい、信心させて頂いておってどのような災難に例えばあっても難儀なことになってもそこのどこかにこれは神様のおかげだというものがどこにかあるのです。それをキャッチしてそれを自分の心の中に広げていくというのが信心。それが例えば教祖様のように本当にどうかしなければおられないほどしにお礼の心が高まっておられる。そこに教祖様の御神徳を受けられるいわば所以があったとこう思うですね。
                                      どうぞ